辺りがすっかり墨の色になった頃だった。
釣りをしに近くの水道まで行って釣り糸を垂らしていたらいつの間にか居眠りをしてしまっていた。
夜の寒さのあまりくしゃみをして目を覚まし、辺りが真っ暗だった時は驚いた。しかも警察みたいな人に職質されそうになるし(釣り人どすって言いながら逃げてきた)
もちろん釣果なんてあるわけもなく濡れた空のバケツは腹の中を虚しくさせた。まぁ最初から魚を取る目的で釣りをしているわけではないから別に良いのだけれど。
しかし、このまま帰るのもどうかと思った。何か、何か今日も良い日だったなぁと思えるようなことをしたかった。持ってるバケツのように空っぽのまま一日を終えることが無償に嫌だった。
あ、酒でも飲もうか こんな気持ちを吹き飛ばすには酒が一番だ。ダメ親父のような発想だけれど最近飲んでなかったし良い機会だ。そう言い聞かせながら足はヒウンの繁華街の方角へ進んでいった。






「(しかしどこで飲もうか・・・)」


夜中になってもがやがやと人の波が集うヒウンシティ。会社員、遊び人、学生・・・もう真夜中と言っても良い時間なのに大通りは老若男女がさまざまな表情を浮かべながら闊歩している。
飲むと決めたは良いがどこで飲むかはいまいち決めていなかった。路地裏にある酒場に行っても良いが今回は違う場所で飲みたい気分だった。しかし表通りにある酒場に行くのも嫌だった。一応指名手配されてるし、警察呼ばれたら逃げるの面倒くさいし。

適当に細い道を通って路地裏に入る。するとさっきの人の波が嘘のようにしんと静まり返る。ひたひたと暗く湿った道を歩くうちに明かりのついたビル群が古く錆びた廃ビルへと変わっていく。空も乱立するビル郡に邪魔されてもっと狭くなっていた。慣れた光景だが今回はいつも入ってる道とは違う道から入ったので何か他の店に出会えるだろう。そうつらづら思っているといつもとは違う雰囲気が漂ってきたことに気づく。ビルから垂れ下がるのは見慣れない光で、


「こんな所に提灯?」


ぽつぽつと姿を見せる提灯、お囃子のような音、客引きをする男の声・・・明らかに路地裏とは違う雰囲気だ。


「路地裏にこんな場所あったか?」


目を丸くさせながら音のする方向へ歩いていく。持っていた釣り竿と空のバケツがとても邪魔だった。
通りのような道が見えたので出てみるとそこは別世界だった。古く大きな日本家屋が立ち並び提灯や灯篭の光で爛々と眩しいくらいの光を放っている。辺りは屈強な男たちが昔の籠やら大きな箱を持って歩いていたり、なよなよとした男が甲高い声を上げながら客引きをしていたり、客と思われる男たちが張見世の格子に張り付いていた。どうやら雰囲気的この辺りは遊郭らしい。遊郭なんてとっくの昔に廃れてしまったものだと思っていたが、変な所へ来てしまったものだ。
まぁたまには女と遊ぶのも良いかもしれない。溜まっていると言われたら溜まってるし。ここが昔の遊郭のめんどくさい格式とかが無ければ良いが。ふらふらと歩いていると客引きをしている男に声をかけられた。


「お兄さんもしかしてここは初めてですかい?」


えらく早口で喋る男だった。あまりにペラペラと早口なものだから唾が飛んできて頬に当たった。


「そうどすなぁ」

「だったらお兄さん、うちの女の子たちと遊んで行きませんかい?どの娘も可愛いですよ!」


頬の唾を拭っていると肩を強く捕まれて初会料金安くしときますぜとひそひそ声で言われた。馴れ馴れしい男だと思ったがまぁ何かの縁かと思って承諾した。
こういう時は店の者について行くのが一番だ。が、ただ一つ、男がいやに口角を上げて笑うことが気になっていた。






腕を引っ張られながら男の見世にあがる。張見世の娘達を見たかったが男がおすすめの娘を紹介すると言ったのと格子が他の客の男共でいっぱいになっていてよく見れなかった。まぁあれだけ人がいるということは人気の見世なのだろう。そういうことにしておこう
二階の部屋に通されてここで待っててくだせえと言われる。釣り竿とバケツを置いて座布団に座る。座布団から高そうなお香の匂いがした。甘い
何分初めての場所なのできょろきょろと辺りを見回す。如何にも年代ものの掛け軸、彩り鮮やかな生け花、光り輝く調度品・・・この部屋の娘は中々上の位にいる娘だと分かった。
暫くすると酒とお通しの魚が出てきた。昼から何も食べてなかったので適当に魚をつついて食べていると男が入ってきた。


「お客さんお待たせしました!娘を連れて参りました!」

「随分遅かったどすなぁ」

「すいません何せ売れっ妓なものでして・・・ではお呼びしますね!・・・るり!るーりー!」


手を叩きながら男が娘の名前を呼ぶとズルズルと音を立てながら娘が入ってきた。ん?ズルズル?
娘が目の前に腰を下ろすと男はすっと部屋から出て行き「ではごゆっくり」と台詞のような言葉を言って障子を閉め、部屋を出て行った。
美しい娘だった。しかし自分は思わず口に進めていた箸を止めた。潤いをとどめた黒い髪、透き通るような白い肌、全てを見通しているかのような赤い目。普通だったら見惚れていたかもしれない。しかし、普通じゃなかった。

娘の着物から出る下半身が、魚の尾びれだった。
尾びれ・・・人魚、マーメイド、シーマン、河童、は違う・・・とにかく、作り物じゃないのか。目の前の事実がどうしても信じられなかった。
あんぐりとまぬけに開けていた口をなんとか閉じると娘は深々とお辞儀をした。


「るりと申します」

「その足は作り物どすか?」


自分の自己紹介もせずあとその耳の鰭、と指を差すとるりという娘はゆっくり顔を傾けた。


「お客様、もしかしてこの界隈は初めてですか?」


こくりと頷くとるりは目を伏せて小さく息を吐いてから俺を見た。どうやら飽きられたらしい、客なのに。


「この辺りは通称見世物小屋と呼ばれています」

「見世物小屋?」

「えぇ、私みたいに普通の人とは違う娘たちがお客様をもてなすのです」


そう言ってるりは自分の足を細い指で撫でた。細かい鱗の一つ一つを見ているとどうやら作り物ではないらしい
しかし普通の人ではない娘と言うと、このるりのように他の動物だったり化け物だったりの特徴を持った娘たちもいるのだろう。羽、角、足、手・・・挙げ始めて考えたらキリがない。ふと格子に張り付いていた男たちを思い出す。ああ、まさに『見世物』だ。鼻から深い息が吐き出た。


「えらいどすなぁ」

「もう慣れました」

「ここから出よったいとは思いまへんどすか」

「いえ」

「なんで」

「私たちが忌み嫌われる存在だからです」


るりと目が合う。真摯で、全てを諦めたかのような濁った目だった。


「私たちは・・・言わば異形です。外から出たら、きっと人間の扱いはしてもらえない・・・だったらここにいた方がずっとマシです」

「でもここにいたら色事もおますでっしゃろ。」

「だとしても、身の保障をしてもらえるのであれば、それで良いのです。最近、追放された同胞もいますし」

「へぇ。」

「それに、ここでお客様に外の話をしてもらえれば、私は満足です」


にこりと笑ったるりの顔はどことなく寂しかった。まぁ、彼女が満足しているのであればそれで良いのだろう。外から来た自分が彼女のことをあれやこれや言う資格はない。客だし、初会だし。それに自分も『普通』ではない


「会って早々失礼なことを言うてすんまへん」


素直に頭を下げるとるりはなんともないような顔をして被りを振った。どうやら結構聞かれる事のようだ。


「それよりお客様、お酌いたしましょうか?」

「あぁ、たのんます」


猪口に酒を入れてもらう。ぐいっと一気にあおると久々の酒の味に頭の中がぐらぐらと揺れた。
気持ちの良い酔いを感じながら首を回して肩を鳴らすとるりが持ってきていた釣り竿とバケツに目を向けた。そういえばすっかり存在を忘れていた


「お客様は釣りをなされているんですか?」

「あぁ、趣味どす」

「趣味?」

「こうやって釣り糸を垂らしていると気持ちがほぐれるどす」


適当に竿を振る動作をするとるりは不思議そうに顔を傾けた


「魚は釣らないのですか?」

「釣果はかまへんどす」

「何それ」


くすくすと声を殺してるりが笑った。それが素の笑いのような気がして、なんとなく嬉しかった。あんな話を聞いた後だからだろうか、申し訳ない気持ちからだろうか、彼女には楽しい気分になってほしかった。


「お客様は西の方なんですか?」

「なんで」

「京言葉ですし」

「これはキャラ作りどす」

「キャラ作り?」

「あー・・・別に嫌だったら普通に喋るけど」

「いえ、嫌じゃないですよ」

「そうどすか」


自分の正体は聞かれないかぎり言わないことにした。足を切る辻斬りなんて聞いて良い気持ちにはならないだろう(そりゃそうだ)
足、そういえば・・・彼女の足、尾びれを見る。最初はビックリしてコメントも何もなかったが今改めて見ると美しいものだと思えてきた。光の角度で色が変わる鱗、鰭の透明さ・・・なんだ、全然良いじゃないか。これのどこか気持ち悪いのか、なぜ異形と呼ばれるのか、唐突に理解し難くなった。
すると腹の底に沈んでいた欲求が急に顔を出し始める。ずかずかと歩み寄って、彼女の足を斬れと耳の後ろから囁いてくる。それを奥歯を噛み締めながら必死に耐える。黙れ、黙れ、今は出てくるな、彼女は、斬っては駄目だ。
急に黙り込んだのでるりが不思議そうな顔をした。被りを振って、なんでもないような顔をする。そうだ、斬っては駄目なのだ。「今」は


「お客様大丈夫ですか?」

「えぇ、どもないどす。久しぶりに酒を飲んださかい」

「はぁ。」

「そういえばココは初会で色事をしてもええのどすか」

「え、」


るりの目が少し丸くなる。何を言っているんだこいつはと言わんばかりの顔だった。


「?どないしました?」

「いえ・・・色事は通っていただかないと・・・」

「そうどっか。では一緒に寝てもろてええどすか」

「一緒に?」

「えぇ、人肌恋しいんや。あ、手は出さへんさかい安心しておくれやす」

「あ・・・・・はい・・・・・。」

「良かった。ほなようちびっと飲みまひょか」


持っていた猪口を出すとるりは複雑な顔をしながら酌をした。
一緒に飲もうともう一つの猪口を持たせて酌をする。酒を含んだ彼女の身体はほんのりと赤くなっていった。

徳利の酒が尽きた頃、そろそろ寝るかという話になり二階廻しに金を持たせて布団を用意してもらった。
布団に入ってポンポンと隣を叩くとおずおずとるりは入ってきた。肩を握ると酒のせいでか生ぬるかった。さすがにお触りには慣れているからか、何も言わなかった。尾びれあたりを触ろうと思ったがさすがに駄目かと思ってやめておいた。
目の前のるりは目を閉じてじっとしている。客が寝るまで寝れないのだろう。余計なことはせず、大人しく寝ることにした。






「昨晩は楽しかったどす」

「それは良かったです」


あれから本当に眠りこけてしまって気がついたら夜明けの日が窓から差しこんでいた。るりに起こされて目を開けたとき見たことない天井とお香の匂いに一瞬真顔になった。思えば昨日の昼間から夜まで寝て暫くしたらまた寝るってどう考えても寝過ぎだろ俺
適当にはねた髪を整えてるとるりが手鏡を持ってきてくれた。男にそこまでしなくても良いのにと思いつつありがたく拝借する。鏡を見るといつもの自分の顔だった。目小さいの直らないかなあ
手袋をはめてメットを被って上着を羽織る 釣り竿とバケツはあげると言ったらいらないと即答された。そりゃそうか、ここにいても釣りなんてできないしね


「また機会があれば来るどす」

「はい」


じゃっと部屋から出ようとしたらズボンの裾を握られて引き止められた。
振り返って下を見るとるりがこちらを見上げて口を開いた


「あの」

「何か」

「昨晩は本当に私と色事をしようと思ったのですか」

「そうどすやけど」

「・・・・・・。」


絶句された。なんか悲しい


「あんさんこの仕事長いにゃさかい、うちみたいに色事ぐらい求める人もおるでっしゃろ」

「そう、ですけど・・・」

「さすがに人魚の穴はどこにおますか分かりまへんけど。あ、もしかして咥えてもらうやけとか?」


ゲラゲラと笑いながら冗談のつもりで言ったらまた絶句の顔をされた。ドン引きされただろうか。まぁ、申し訳ない


「あんさん自分は異形やから、とか思ってるでっしゃろ」

「・・・。」

「あんさんの境遇とか今まで経験したこととかはよう分かりまへん。うちまだ初会やし。」

「でもあんさんは異形とか足とかそういう事抜きにしてほんまにうつくし人やと思うて。やから自信を持ちよし」


そう言い残して部屋を出て行った。るりの顔は見なかった
帰りに遣手に倍ぐらいの花代を渡すと遣手はまた来てくださいねと作り物のような笑顔で笑った。






朝方だからかまだ肌寒い。外に出た瞬間大きなくしゃみが出た。風邪でも引いただろうか
見世の娘は外から出てはいけない決まりでもあるのだろうか、大抵見世から出てくるのは男だけだった。時々ぽつぽつと女も出てきてはいたが皆頭巾や布などで頭や体の一部を隠していた。
昨夜来た道から戻ればヒウンの表通りにたどり着くのだろうか。このままこの辺りに閉じ込められるのは勘弁だ。客引きの男に呼び止められた方向に向かって歩き出す。
あの時、どうして自分は色事のことを言ったのか分からなかった。本当に彼女を抱きたかったのだろうか。許しを貰っていたらあのまま抱いていたのだろうか よく、分からない。ただ、見慣れたときのあの尾びれは本当に美しいものだと思った。斬って壁に飾れば隣の足に映えて綺麗に見えるだろう。こんなこと、彼女に言ったらどんな顔をするだろうか・・・
寒さのあまりに吐いた息が白くなって空と混じる。目を閉じると睫毛がひんやりして冷たかった。濡れていたバケツもとっくの昔に乾ききっていて、どこかでぶつけたのか、ヒビが入っていた


あぁ、いずれまた来るよ るりさん

















金魚鉢からはみ出した爪先



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